鬼は、どこにいるのか
境界、敗者、そして語り継がれるもの
前編 — 誰に声を与えるのか
序では、「鬼」という言葉のねじれ——中国では死者の霊を指し、日本では「隠れて見えないもの」を指したこと——と、鬼が神とも地続きだったことを見ました。言葉の上で、鬼は最初から一つではありませんでした。
では、舞台の上ではどうでしょう。能の鬼や異形も、やはり一様ではありません。自分の来歴を長く語る者もいれば、ほとんど何も語らないまま討たれる者もいる。山にいるのに鬼にならない者もいれば、鬼神なのに土地を守る者までいる。現代の『鬼滅の刃』や『桃源暗鬼』が討たれる側にも事情を与えるように、能もまた、鬼を一枚岩には描きませんでした。
そこで、二つに分けて見ていきます。前編は「誰に、どんな声が与えられたのか」。同じ討たれる側でも、長々と身の上を語る鬼もいれば、一言も発しないまま斬られる鬼もいます。その差の付け方に、能が鬼をどう見ていたかが表れます。後編は「鬼は、どこに現れたのか」。視点を地図へ移し、鬼が置かれた場所と、その討伐が繰り返し語り直された理由を追います。
どちらの問いでも、鍵になるのは「中央と、その外」という見方です。そこで、先に言葉を一つだけ決めておきます。この特集でいう「中央」とは、京都や大和といった場所だけを指しません。朝廷や国家、都の秩序——その時代に「こちら側」とされた世界を、まとめて呼ぶための言葉です。能の鬼や異形の多くは、この中央の「外」に置かれた存在として、舞台に現れます。
1
鬼と呼ぶ前に
序で置いた三つの区別——物語上の存在/舞台表象(面)/後世の分類——を、前編でもそのまま使います。能の異形には、鬼、土蜘蛛(つちぐも)、蛇体(じゃたい)、生霊(いきりょう)、怨霊(おんりょう)、山中に棲む者など、さまざまな呼び名があり、この三つは必ずしも一致しません。
前編で追うのは、主に物語上の存在と「誰に語らせるか」という構造です。面や変身そのものは、次回で扱います。
2
葛城山から来たもの — 土蜘蛛
能『土蜘蛛』は、病に臥せった源頼光(みなもとのらいこう)のもとへ、侍女の胡蝶(こちょう)が薬を届ける場面から始まります。夜になると怪しい僧が現れ、頼光へ無数の糸を投げかけます。頼光が名刀・膝丸(ひざまる)で斬りつけると僧は消え、血の跡を追った従者たちは古塚で土蜘蛛を見つけ、最後には討ち取ります。
ここで気になるのが、「土蜘蛛」という名前です。
『日本書紀』や各地の風土記では、「土蜘蛛」「土雲」という語が、朝廷に従わない在地の人々を呼ぶ言葉として現れます。後世になると、そこに蜘蛛の怪物という姿が重なっていきました。能『土蜘蛛』が舞台に上げるのは、この怪異化したあとの土蜘蛛です。
能『土蜘蛛』を読むとき、しばしば王土王民(おうどおうみん)という秩序観が背景に挙げられます。天下の土地と民は王の支配のもとにある、という考え方です。土蜘蛛は、その秩序に抗する側へ置かれています。
ただし、ここから「土蜘蛛とは特定の先住民族だった」と一足飛びに結論づけることはできません。古い史料に出てくる名称と、後世の怪物表象は同じものではないからです。
謡本(うたいぼん。能の台本にあたるもの)の詞章では、後シテ(のちじて=能の後半に現れる主役)の土蜘蛛がこう名乗ります。
我むかし葛城山に年を経し、土蜘蛛の精魂なり
大意 私はかつて葛城山(かつらぎさん)に長く棲んでいた、土蜘蛛の精である。
土蜘蛛にも声はあります。ただし、それは境遇や苦しみを語る長い回想ではなく、戦う相手として自らの正体を明かす名乗りに近い。土蜘蛛は、自ら名乗り、そして討たれます。
3
鬼にならなかった人々 — 国栖
ここで、話が少し横へそれます。国栖(くず)です。鬼ではありません。
けれど、この寄り道が案外大事です。国栖は、「こちら側」の外にいる者が、必ず鬼や敵として描かれたわけではないことを、いちばん素直に見せてくれるからです。
能『国栖』の舞台は、壬申の乱(じんしんのらん)を背景とする吉野です。皇位をめぐる争いのなかで吉野へ逃れた大海人皇子(おおあまのおうじ、のちの天武天皇)を、国栖の老人夫婦が匿います。追手が来ると、二人は皇子を伏せた舟の下へ隠し、やり過ごします。後半には蔵王権現(ざおうごんげん)が現れ、皇子の将来を祝福します。
国栖の人々は、自分たちの役割も言葉にしています。
我等もこれに国栖魚の候。是を供御に備へ申さうずる
大意 私たちのところにも国栖魚(くずうお)、つまり鮎(あゆ)がございます。これを供御(くご)として差し上げましょう。
国栖魚とは鮎のこと、供御とは天皇や貴人の食事のことです。吉野の爺(老人)が一匹の鮎を手にし、それを皇子へ捧げる。国栖の人々は、都から離れた土地に住みながら、敵として異形化されるのではなく、土地の恵みを捧げる協力者として描かれます。
土蜘蛛のあとに国栖を置くと、話が急に単純ではなくなります。土蜘蛛は、秩序に抗するものとして怪異化され、最後には討たれる。国栖は、都の外にいながら皇子を助け、物語の中へ取り込まれていく。どうやら、外にいたこと自体が、鬼になる条件ではなかったようです。
同じ山の外部でも、一方は討たれ、一方は皇子を助ける。違いを生んだのは距離ではなく、物語の中でどの位置を与えられたかでした。
4
勝者の側から見ると — 田村
今度は、視点を反対側へ回してみます。外にいる者ではなく、それを討つ側を主人公にした曲です。能『田村』では、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が中心になります。
田村麻呂は実在の征夷大将軍で、蝦夷(えみし)征討に関わった人物です。能では、清水寺の縁起を語る前半から、田村麻呂の霊が鈴鹿の鬼神を討つ後半へ進みます。勝ち戦を描く「勝修羅(かちしゅら)」に分類される曲で、その勝利には観音の力が重ねられます。
謡本の詞章では、戦いの場面がこう語られます。
千手観音の、光を放つて虚空に飛行し、大悲の弓には智恵の矢
大意 千手観音が光を放って空を飛び、慈悲の弓に智慧の矢をつがえて力を貸す。
ここで興味深いのは、討たれる鬼神の側に独立した台詞がほとんどないことです。鬼神は自分の来歴や理由を語りません。地謡(じうたい=舞台脇で情景や心情を謡う斉唱)が外側から戦いを描写し、最後は観音の力による勝利として終わります。
つまりこの曲は、征討する側の勝利を、観音の力という宗教的な裏づけとともに語ります。討たれた側の嘆きは、最後まで表に出てきません。
ただし、ここでも一つ線を引いておく必要があります。史実としての蝦夷征討と、鈴鹿の鬼神退治は同じ出来事ではありません。前者は歴史の層、後者は伝説の層にあります。鬼神をそのまま蝦夷の人々と同一視することはできません。それでも、実在した征討者に「鬼を討つ」という伝説が重なっていく。その事実は、国家の側が「外」をどう語ったのかを考えるうえで見逃せません。
5
討たれた側が話し始める — 鵺
『田村』とはずいぶん違う曲があります。能『鵺(ぬえ)』です。
鵺は、源頼政(みなもとのよりまさ)に射落とされた異類です。頼政は鵺退治によって名を上げ、褒美を受けます。ここまでなら、英雄が怪物を倒す典型的な退治譚です。ところが『鵺』では、話が逆向きに進みます。勝者ではなく、討たれた側が話し始めるのです。
後シテの鵺は、自分から正体を明かします。
是は近衛の院の御宇に、頼政が矢先にかゝり、命を失ひし鵺と申しゝもの
大意 私は近衛天皇の御代(みよ)に、頼政の矢に射られて命を失った鵺である。
鵺は続けて、自分が射られた夜を語り直します。頼政が「南無八幡大菩薩」と念じて矢を放ち、自分が射落とされたこと。さらに、討たれたあとには、
空穂舟に押し入れられて淀川
大意 中が空洞になった舟へ押し込められ、淀川へ流された。
と、自分の死後まで語ります。土蜘蛛の名乗りが戦う相手としての自己紹介に近かったのに対して、鵺の言葉は、自分がどう討たれ、どう捨てられたのかを振り返る長い述懐になっています。
旅僧は鵺のために経を読み、回向(えこう)します。回向とは、読経などの功徳を死者へ振り向け、供養することです。英雄の武勲だけでは終わらない。討たれた異類にも、自分の最期を語る時間が与えられています。
6
ここまでで、鬼の輪郭が少し崩れる
ここまで来ると、「鬼」という括り自体が少し怪しくなってきます。国栖は鬼ですらありません。それでも並べると、むしろ違いがよく見えます。
- 『土蜘蛛』では、秩序に抗する存在が怪異として討たれる
- 『国栖』では、都の外にいる人々が協力者として物語へ入る
- 『田村』では、征討する側の勝利が宗教的な力とともに語られ、討たれる鬼神にはほとんど声がない
- 『鵺』では、討たれた異類が自分の死と漂流を語る
同じ「こちら側と、その外」という構図があっても、扱いは違います。そして違うのは、討つか助けるかだけではありません。誰に語らせるのかも作品ごとに異なります。
『田村』の鬼神は、ほとんど自分を語りません。『鵺』は、討たれたあとに自分の物語を語り直します。『国栖』は、そもそも異形化されることなく、自分たちの役割を語ります。誰に言葉を与え、誰を外から眺めるのか。その違いは、分類表よりも、作品の中にずっとはっきり残っています。
7
鬼にも、ずいぶん違いがある
ここまでの四曲だけを見ると、「外にいて敵対した者が鬼になる」という図式が浮かびます。では、明示的に鬼や鬼神が登場する曲まで広げるとどうでしょう。
DB上で、シテの役名に「鬼」「鬼神」「鬼女」が明示される曲には、『大江山』『羅生門』『紅葉狩』『安達原』『鉄輪』『野守』『舎利』などがあります。ところが、これらを並べても、鬼の役割は一つに揃いません。
退治される鬼 — 大江山・羅生門
『大江山(おおえやま)』では、酒呑童子(しゅてんどうじ)が鬼として現れ、源頼光の一行に討たれます。『羅生門(らしょうもん)』では、都の境界に現れた鬼神と渡辺綱(わたなべのつな)が戦います。
この二曲は、私たちが思い浮かべる「鬼退治」にかなり近い。『土蜘蛛』も同じ頼光伝説圏にあり、三曲を並べると、秩序を脅かす存在を武力で退けるという型が見えてきます。
ただし、同じ「退治型」でも、鬼への語らせ方は一様ではありません。『大江山』の酒呑童子は、討たれる間際に恨みを述べます。
情なしとよ客僧達。偽あらじと云ひつるに。鬼神に横道なきものを
大意 情けない客僧たちよ。偽りはないと言っておきながら。鬼神には、道に外れた振る舞いなどないものを。
山伏に身をやつして近づき、酒に酔わせて討つという段取りそのものへの抗議です。比叡山を追われた来歴も語られ、討たれる鬼の側に言い分が与えられています。一方で『羅生門』では、シテの鬼神自身に独立した謡はありません。腕を斬られた鬼が「時節を待ちて又取るべし」と叫んだことを、地謡が外側から伝えます。鬼の声そのものは物語に残るのに、その声を舞台上で誰が謡うかは『大江山』とは違う。同じ退治型でも、誰の口を通して異形の声が残されるかに差があります。
ただし、ここから「敵対する者はすべて鬼になる」と一般化することもできません。
討たれない異形 — 山姥
『山姥(やまんば)』は五番目物・鬼物に分類されますが、物語は退治譚ではありません。
善光寺へ向かう遊女「百ま山姥」の前に、本物の山姥が現れます。山姥は遊女を襲うのではなく、自分を題材にした曲舞を一節聞かせてほしいと頼み、やがて山を巡る自らのあり方を語り、舞います。
ここにいる異形は、都や王権への敵対者でも、征服される敵でもありません。山の中に棲み、人間とは別の時間と原理を生きる存在です。山にいる。人ではない。けれど、討たれない。ここでも、こちらの分類の方が先に行き詰まります。
守る鬼神 — 野守
もう一曲、分類を揺さぶるのが『野守(のもり)』です。シテは鬼神ですが、人を襲うのではなく、春日の地を守ります。
春日野を訪れた山伏の前に、野を守る老人が現れます。老人の正体は鬼神です。鬼神は昼は人の姿で野を守り、夜は塚にこもる、と語られます。後半、その鬼神は「野守の鏡」を手に現れ、地獄のありさまをはじめ世界を鏡に映して見せたあと、大地を踏み破って地の底へ帰っていきます。
ここでは鬼神は討たれません。春日の地を守る存在として現れます。序で触れたとおり、「鬼神」はそもそも神の一種です。鬼であり、同時に神でもある。この曲は、鬼と神が対立項ではないことを、そのまま舞台に乗せています。
興味深いのは、終盤の詞章に「鬼神に横道を正す、明鏡の宝なれ」とあることです。ここは鬼神自身の直接発話と決めつけず、詞章として扱います。さきほどの『大江山』で酒呑童子が叫んだ「鬼神に横道なきものを」と、同じ「横道(よこしま)」という言葉が響き合います。欺かれて討たれた鬼と、偽りを正す鬼。鬼神という同じ言葉が、曲によってまったく違う位置に置かれているのです。(なお『野守』の作者には異説があり、本稿では作者を断定しません。)
では、「敵対すると鬼になる」のか
ここまで広げると、仮説は少し言い換えた方がよさそうです。
敵対・抵抗する存在が、鬼や怪異として描かれる型は確かにある。しかし、鬼・鬼神という表象そのものが敵対性を意味するわけではない。
『大江山』『羅生門』『土蜘蛛』では、鬼や怪異は討伐されます。一方、『山姥』は討たれず、『野守』の鬼神は土地を守り、世界を映す力を持つ存在として現れます。問題は「鬼かどうか」だけではなく、その存在が秩序とどんな関係を結んでいるかです。
- 秩序を脅かす
- 秩序に取り込まれる
- 秩序の外で独自に存在する
- 土地や神域を守る
- 討たれたあとに語り直す
「鬼」という札を先に貼ると、こうした違いが全部同じ箱に入ってしまいます。見るべきなのは鬼かどうかより、その存在が誰と、どんな関係を結んでいるかの方です。
8
では、誰がそう描いたのか
ここまで来ると、作者と上演環境も気になります。
能は、室町時代の武家権力と無関係な場所で育った芸能ではありません。将軍や有力武家の庇護を受け、その前でも演じられてきました。だからといって、鬼退治の曲をそのまま「権力の宣伝」と読むのも単純すぎます。
『鵺』は世阿弥作とされます。一方、『田村』は作者に異説があり、確定していません。作者の比定が揺れる曲も多く、現段階で「作者ごとの鬼の描き方」まで論じるには材料が足りません。ここでは、もっと手前に留めます。
同じ能の中でも、討たれる側に長く語らせる曲があり、ほとんど語らせない曲があり、そもそも討たない曲もある。少なくとも、鬼や異形の描き方に一つの型しかなかったわけではありません。
前編では、「誰に声を与えるか」という一点から曲を並べてきました。
討たれてなお自分の最期を語る鵺。名乗って戦う土蜘蛛。ほとんど声を持たない田村の鬼神。協力者として語る国栖。討たれず舞う山姥。土地を守る野守の鬼神。同じ「鬼・異形」という大きな括りの中に、これだけの違いがあります。
後編では、視点を変えます。これらの鬼や異形は、どこに居たのか。そして、すでに討たれたはずの鬼を、人はなぜ再び物語の中で語り直すのか。地理と記憶から、もう一歩考えます。
後編 — 境界の外にいるもの
1
地図に置くと、「外」は遠方とは限らない
今度は、曲名をいったん脇へ置いて、場所だけを地図に落としてみます。葛城、吉野、羅城門、大江山、戸隠、鈴鹿、春日野。並べてみると、少し妙なことに気づきます。
鬼や異形は、都からはるか遠い「辺境」にだけいるわけではありません。都の門にもいるし、大和のすぐ隣の山にもいる。目につくのは距離より、山、峠、門、国境、川筋といった、秩序が切り替わる場所です。
『土蜘蛛』は、そのことをよく表しています。前半の舞台は都の頼光の館です。そこへ怪しい僧が入り込み、正体を見破られると、後半の舞台は大和の葛城山へ移ります。国立能楽堂の解説も、葛城山を、朝廷に服従しなかった在地勢力の記憶と結びつく場所として説明しています。ここで大事なのは、葛城が「日本の果て」ではないことです。大和の中心に近い。そのすぐ隣にも、朝廷や都の秩序から見れば「外」と映る場所がありました。
『国栖』の吉野も同じです。吉野は大和の南の山地ですが、物語では都から逃れた大海人皇子を守る場所になります。しかも国栖の人々は、後世には宮中へ参内して歌笛を奏したことが史料に見えます。山の外部が、そのまま敵になるのではなく、朝廷の秩序と結び直されていく例です。
いちばん露骨なのは『羅生門』でしょう。境界そのものが舞台です。羅城門は平安京の南端に置かれた都の正門でした。能では、その都の内と外を分ける門そのものに鬼が現れます。
『大江山』も境界との関係が深い伝説です。酒呑童子の「大江山」には複数の比定地があり、能の舞台を一か所に固定することはできません。ただ、中世京都の地理感覚では、山城と丹波の境にある老ノ坂・大枝山も「おおえやま」と結びつきます。ここは山陰道が都へ入る交通の要所であると同時に、都の四方の境で疫神を祓う「四角四境祭(しかくしきょうのまつり)」で、山城国の境の一つとされた場所でもありました。境界をまたぐ地であり、外から来る災いを食い止める地でもあったわけです。
さらに、『紅葉狩(もみじがり)』の戸隠山(とがくしやま)、『山姥』の越中・越後国境の上路(あげろ)、『田村』で鬼神が討たれる鈴鹿山。山と峠と国境が繰り返し現れます。
しかし、ここでも地理だけでは決まりません。春日野は大和の中心に近い神域です。そこに現れる『野守』の鬼神は、外から侵入する敵ではなく、野を守る存在です。越中・越後の国境に現れる『山姥』も討伐されません。だから、「山にいるから鬼になる」「都から遠いから敵になる」とは言えません。距離だけでは、説明がつかないのです。
「外」とは、中心からの距離ではなく、秩序が切り替わる場所に生まれるのではないか。
門を越えれば都の外になる。峠を越えれば国が変わる。山へ入れば、平地とは違う生活や信仰の世界がある。川の上流には、都や国家から直接は見えにくい社会がある。
古代史に出てくる土蜘蛛、国栖、蝦夷(えみし)、隼人(はやと)も、一つの民族名としてまとめることはできません。それぞれ時代も地域も、朝廷や律令国家との関係も違います。蝦夷についても、律令国家との戦争だけでなく交流があったことが考古学から分かっています。南九州の隼人も、抵抗ののち律令国家へ組み込まれていきました。したがって、古代の「まつろわぬ民」の分布と、室町期の能に現れる鬼の場所を、そのまま一枚の地図で同一視することはできません。
ここで一枚の地図に全部を押し込むと、また話が乱暴になります。地図は二枚に分けた方がよさそうです。一枚は、古代国家がどこまで支配を伸ばし、その外や境界にどんな人々を記録したのかを見る地図。もう一枚は、能がどこを鬼・異類・神の現れる場所として選んだのかを見る地図。その二枚を重ねたとき、もし同じような地形——山、峠、門、国境、川——が浮かび上がるなら、そこで初めて問いが立ちます。
鬼は「辺境の住人」だったのではなく、境界を見える形にする存在だったのではないか。
まだ仮説です。それでも、『羅生門』の門、『大江山』の峠、『土蜘蛛』の葛城、『山姥』の国境の山道を並べると、「遠い/近い」より「こちら/向こう」の切り替わりの方が気になってきます。そして『国栖』と『野守』が、その線を単純な「外=敵」から引き戻してくれます。境界にいる者は、討たれることもあれば、都や王権を助けることも、土地を守ることもあるのです。
2
なぜ、討ち終えた鬼をもう一度討つのか
場所を見ているうちに、もう一つ引っかかることが出てきます。土蜘蛛も酒呑童子も、物語の中では敗れます。ところが、それで消えたわけではありません。退治の物語そのものが、別の物語、絵画、芸能へと受け渡されていきました。
土蜘蛛については、その変化を比較的はっきり追うことができます。古い記紀の世界では、土蜘蛛は朝廷に服属しない地方勢力として語られます。それが中世になると、源頼光と四天王が妖怪を退治する物語へ組み替えられ、さらに絵画や芸能へ広がっていきました。先行研究では、この変容を、軍記物語の古典化や周辺説話の再編、武家社会における「語り」の継承と結びつけて論じています。
少なくとも土蜘蛛については、「朝廷に従わない者として記録される → 中世の物語で妖怪として再構成される → 頼光たちに退治される物語になる → 絵画や芸能へ移り、繰り返し語られる」という変化をたどることができます。
酒呑童子も、一度討たれて終わった鬼ではありません。大江山の物語は中世以後、絵巻や御伽草子、草双紙などへ形を変えながら繰り返し作り直されました。そこには武家の系譜や政治的権威と結びつける読みもあれば、怪異譚として享受した人々の側から見る研究もあります。
ここまでは、先行研究を手がかりに言えます。ただ、その先へ行くと、急に足場が悪くなります。
なぜ人々は、敗れた鬼の物語を何度も語ったのか。
「敗者を忘れないためだった」とまで言える根拠は、いまのところありません。鬼退治そのものを「鎮魂」や「封印」と呼ぶのも早いでしょう。ただ、比較してみたいものがあります。怨霊です。
序でも触れた菅原道真は、恐れられたからこそ天神として祀られました。怨霊を祭祀の内側へ迎え、神として位置づけ直していく過程には、歴史研究の蓄積があります。もちろん、怨霊を祀ることと、鬼を退治する物語を演じることは別の行為です。ここを一つにしてはいけません。それでも、並べてみると気になることがあります。道真は、恐れられたからこそ祀られ、その名が残った。土蜘蛛や酒呑童子は、討たれる側でありながら、その退治譚が繰り返し作り直された。どちらも、危険な存在を「消して終わり」にはしていません。
では、鬼を何度も物語へ呼び戻し、もう一度討つことには、どんな意味があったのでしょう。勝者の武勲を確認するためだったのか。武家の権威を語るためだったのか。怪異そのものの魅力が人を引きつけたのか。それとも、敗れた側まで含めた出来事を、物語として残す働きもあったのか。一つには決められません。
ただ、能『大江山』を見ると、この問いはさらに複雑になります。舞台は酒呑童子をもう一度討ちながら、その酒呑童子自身に「偽りはないと言ったではないか」「鬼神に横道はない」と抗議させます。勝者の物語を繰り返しながら、敗者の声まで残してしまう。少なくとも、これを「勝者が勝利を確認する舞台」とだけ言ってしまうと、酒呑童子のこの言葉が余ります。
3
現代の鬼ものへ、いったん戻る
序で見たように、現代の鬼ものは、鬼の側に感情や来歴を与え、討つ側の正義そのものを問い直すことがあります。
能がすでに同じことをしていた、と言いたいわけではありません。中世の能では、討たれる側に言葉を与える曲もあれば、ほとんど語らせない曲もあります。外部の人々が怪異化される場合もあれば、国栖のように協力者として物語へ入る場合もあります。
現代と中世を比べて面白いのは、「昔も今も同じだった」ことではありません。鬼や異形をどう描くかが、時代ごと、作品ごとに選び直されてきたことです。
鬼というモチーフがこれほど長く残ったのは、恐ろしい怪物だからだけではないのかもしれません。誰を外に置くのか。誰に事情を語らせるのか。誰の側から正しさを見るのか。鬼という姿は、そうした問いを載せやすい器でもあったように見えます。
4
境界は、人の内側にもある
「昔の鬼は、ただ討たれるだけだったのではないか」。最初は、そう考えていました。土蜘蛛や酒呑童子は討たれ、国栖は助け、田村の鬼神はほとんど語らず、鵺は自分の最期を語り、山姥は舞い、野守の鬼神は土地を守ります。そう単純ではありませんでした。
まだ、「鬼とは何だったのか」という問いに答えたわけではありません。ただ、都や国家の外にいたことと、鬼にされたことが同じではない、というところまでは見えてきました。鬼は、山の向こうにだけいたわけではありません。都の門にもいた。都のすぐ隣の山にもいた。そして、ときには土地を守っていた。
だとすれば、鬼を探すために見るべきなのは、角や牙だけではないのかもしれません。その物語が、どこに境界を引いたのか。その境界のこちら側にいた者が、向こう側にいる者を何と呼んだのか。第1回は、そこまで見てきました。
ところが、境界は土地の上にだけ引かれるわけではありません。人の内側にも引かれます。蛇になった女、生霊になった女、鬼になろうとした女。次回は、外にいる鬼ではなく、人がなぜ異形になるのかを見ていきます。
