人は、なぜ異形になるのか
蛇、生霊、般若――感情が姿を変えるとき
第1回では、鬼がどこにいるのか、そして誰に声が与えられるのかを追いました。とくに後半は、鬼を地図の上に置いて眺めました。ところが今度は、地図をいくら眺めても見つからない鬼が出てきます。外から来るのではなく、人の内側から姿を現す異形です。
『鬼滅の刃』のように、人が鬼に「なる」という筋は、現代でもなじみ深いものです。では、能ではどうでしょう。人はどうやって異形になるのでしょうか。
能を見ていくと、「鬼になる」という一語では、すぐ足りなくなります。女は蛇になり、生きた人の思いは身体を離れて生霊になり、ある女は鬼になりかけたところで止まる。序で見たとおり、般若の面をかけていても、物語の中では必ずしも「鬼」ではありません。
どうやら問題は、「なぜ鬼になるのか」だけではなさそうです。人の感情に、なぜその姿が与えられたのか。 そこを見ていくと、面の話も避けて通れません。
1
鬼になる、とは限らない
序で置いた三つの区別を、もう一度確認します。能や説話の異形は、現代人がまとめて「鬼」と呼びがちですが、次の三つは同じではありません。
- 物語上の存在:蛇、生霊、怨霊、鬼女など、筋の中で何者とされるか
- 舞台表象:面、装束、所作によって、どんな姿として見せるか
- 後世の分類:現代の観客や解説が、それをどう括ってきたか
今回は、特に舞台表象=面が重要になります。というのも、
般若の面をかけること と、物語の上でその人物が「鬼という種族」であること は、同じではない
からです。般若をかけていても、物語上は生霊だったり、嫉妬に苦しむ女だったりします。ここを混同すると、能が描いた「変化の途中」が見えなくなります。第2回で見る五曲は、いずれも「人が異形へ変わる」話です。ただし、変わり方も、変わりきるかどうかも、一つではありません。
2
鬼ではなく、蛇になる — 道成寺
能『道成寺(どうじょうじ)』の後半に現れるのは、鬼ではなく蛇です。
物語の下敷きには、僧を慕った女が、裏切られて大蛇に変じ、鐘に逃げ込んだ僧を鐘もろとも焼く、という安珍清姫(あんちんきよひめ)の説話があります。能はこれを、白拍子(しらびょうし)が鐘の中へ飛び込み、蛇体となって現れる筋に再構成しています。
ここで目を引くのは、蛇になった本人が、自分の来歴をほとんど語らないことです。女がなぜ蛇に変わったのか、その由来は、ワキ(道成寺の僧)の語りで示されます。
一念の毒蛇と為つて。河を易々とおよぎこし此寺にきたり
大意 ひとすじの思いが毒蛇となって、川をやすやすと泳ぎ渡り、この寺へやって来た。
後半の蛇体は、自分を物語るより、鐘入り・乱拍子(らんびょうし)・祈り合戦といった所作で見せます。これは第1回で見た「誰に声を与えるか」という軸の、内側版です。葵上や砧のように自ら語る異形もいれば、道成寺のように語らず動きで示す異形もいる。
では、なぜ鬼ではなく蛇なのか。蛇は中世において、水・龍・執着・情念と結びつく象徴でした(ここは断定せず、別途調べる論点とします)。角のある鬼ではなく、絡みつく蛇として情念が形を得る——その選択自体が、この曲の見どころです。「蛇=悪」と単純化しないことが、ここでの約束です。
3
身体から先に、思いが出ていく — 葵上
能『葵上(あおいのうえ)』の六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は、「鬼」そのものではありません。生きた人の思いが身体を離れて現れる生霊(いきりょう)です。
かつて東宮妃だった高貴な女が、嫉妬と愛執のために、自分でも制しきれない思いを生霊として葵上のもとへ送る。前半は面に泥眼(でいがん)、後半は般若が用いられると解説されます(面の指定は謡本の詞章にはなく、流儀・演出の約束です)。
御息所は、自分の恨みを自分の言葉で語ります。
それ娑婆電光の境には。恨むべき人もなく。悲しむべき身もあらざるに
大意 この世は稲妻のように移ろう境涯で、本来、恨むべき相手も、悲しむべき我が身もないはずなのに。
恨む理由などないと分かっていながら、恨まずにいられない。理性と感情が裂けていくような言葉です。結末では、横川(よかわ)の修験者が祈り、御息所は救われます。
忍辱慈悲の姿にて。菩薩もこゝに来迎す。成仏得脱の。身となり行くぞ有難き
大意 怒りを忍び慈悲へ転じた姿となって、菩薩もここへ迎えに現れる。成仏して迷いを離れる身となっていく、ありがたいことだ。
討伐ではなく、祈りの中で救済(成仏)へ向かう。異形になった者が、罰されて終わるのではなく、救われる例です。
4
鬼になろうとする女 — 鉄輪
能『鉄輪(かなわ)』は、もっとも直接的に「人が鬼になろうとする」曲です。
夫に捨てられた女が、貴船(きぶね)の社で、鉄輪(五徳)を頭に戴き、顔を赤く塗り、怒りを抱けば鬼になれる、と告げられます。女は語るうちに髪が逆立ち、姿を変えていく。後半の面は生成(なまなり)——角が生えはじめ、まだ般若には至らない、鬼になりかかりの女です。
鬼女は、自分の恨みを語ります。
恨めしや御身と契りし其時は……あら恨めしや
大意 恨めしい。あなたと契りを交わしたあの時は……ああ、恨めしい。
夫は陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明(あべのせいめい)に助けを求め、晴明は形代(かたしろ。身代わりの人形)を立てて祈ります。鬼女は襲いかかりますが、祈りに負け、こう言い残して消えます。
廻り逢ふべき時節を待つべしや。先此度は帰るべしと
大意 再びめぐり逢うべき時を待とう。ひとまず今回は帰ろう。
ここで重要なのは、鬼化が成就しないまま終わることです。討たれるのでも、成仏するのでもなく、「時を待つ」と言って去る。鬼になる手前で中断される。面の生成(人と鬼の中間)が、この「途中」をそのまま舞台に見せています。
5
鬼にならない女もいる — 砧
ここで、話が少し崩れます。能『砧(きぬた)』の妻は、夫を待ち、恨み、死んで亡霊になります。それでも、鬼にも蛇にもなりません。
訴訟のために三年も都に留まる夫を、芦屋(あしや)の妻が待ち続けます。帰ると聞いて喜び、侍女とともに砧を打って思いを届けようとするのに、その年も帰らぬと知って、絶望のうちに死ぬ。後半に現れる亡霊は、自分の執着(愛執)の罪を、自分の言葉で告白します。
我は邪婬の業ふかき。思ひの煙の立居だに。安からざりし報いの罪
大意 私は愛執の罪が深く、その思いの煙が立つのも消えるのも、心安まらなかった、その報いの罪だ。
ここで用いられる面は、般若でも真蛇(しんじゃ)でもなく、痩女(やせおんな)という、やつれた女の面です。角も牙もない。情念が、異形へ振り切れる手前で留まっています。
そして妻を救うのは、調伏ではありません。
法華読誦の力にて。幽霊まさに成仏の。道明らかになりにけり
大意 法華経を読む功徳によって、亡霊はまさに成仏し、その道が明らかになった。
しかも読経するのは僧ではなく、夫です。「僧侶=退治役」とは限らない、という第2回の論点(§8)が、ここにも表れています。砧は、愛別離苦(あいべつりく。愛する者と離れる苦しみ)を正面から描く曲です。
6
夜まで糸を績む鬼 — 黒塚/安達原
能『黒塚(くろづか)』(観世流では『安達原(あだちがはら)』)の鬼女は、はじめから鬼の姿では現れません。
安達原の一軒家に宿を乞うた山伏の前に、家主の老女が現れます。老女は糸を繰りながら、我が身の労苦と無常を語ります。
賤が績苧の夜までも。世わたる業こそ物うけれ
大意 賤しい身で苧(お。麻糸)を績(う)む、その夜なべまでも。世を渡る生業の、なんと物憂いことか。
鬼女の身の上話としては、ずいぶん所帯じみています。人を喰った話より先に出てくるのが、夜まで糸を績む暮らしのつらさです。ところが老女は「閨(ねや)の内を見るな」と言い置いて去り、禁を破って覗いた従者は、死骸の積まれた鬼の棲家を見てしまう。後半、老女は鬼女(面=般若)となって襲いますが、「胸を焦がす焰(ほむら)」と怒りを示したのち、山伏の祈りに追われ、夜嵐にまぎれて消えます。
夜なべを嘆く老女と、人を襲う鬼女が、同じ一人の中にいる。ここまで来ると、「鬼とは何か」という問いが、こちらへ跳ね返ってきます。
7
顔は、どこから鬼になるのか
ここまで来たところで、今度は顔だけを並べてみます。女の怨霊を表す面には、感情の深まりに応じた段階がある、と面打ちの世界では説明されます。おおよそ、
泥眼(でいがん) → 生成(なまなり) → 般若(はんにゃ) → 真蛇(しんじゃ)
という順です。泥眼は、白眼や歯先が金色に塗られ、人を超えはじめた最初の段階。生成は、角が生えかけた鬼になりかけ。般若は、嫉妬・怨念・悲しみ・嘆きを一つに融かした面。真蛇は、完全に蛇体へ転じ、耳がない——「聞く耳を持たない」ことを表すとされます。
本稿の曲を当てはめると、葵上は泥眼から般若へ、鉄輪は生成で止まり、砧は痩女系で般若の手前に留まり、道成寺は蛇体(般若または真蛇)へ振り切れます。感情が深まるほど、人の顔から遠ざかっていく。
ただし、注意が要ります。この並びを、歴史的・演劇的に固定された序列だと断定はしません。これは面打ちの分類語であり、すべての曲が同じ順序を踏むわけではありません。面の指定自体、謡本の詞章には書かれておらず、流儀や演出の約束です(ここは校注本・型付での確認が残ります)。
それでも、面という一点から見ると、能が「鬼か人か」の二択ではなく、その間の連続した変化を造形していたことが見えてきます。
8
感情は、罰なのか
ここでようやく、最初の問いに戻れそうです。感情そのものが「悪」だから、人は異形になるのでしょうか。
能の異形化の背後には、しばしば仏教の苦の観念があります。愛する者と離れる愛別離苦、憎む相手と会う怨憎会苦(おんぞうえく)、求めて得られない求不得苦(ぐふとくく)。砧は愛別離苦、葵上や鉄輪は嫉妬と怨みから来る苦しみを描きます。すると、問いは少し変わります。
感情を持ったことへの罰として、人は異形になるのか。それとも、感情から逃れられない人間の姿として、異形が与えられたのか。
前者なら異形は懲罰です。後者なら、異形は人が抱えきれないものを、舞台の上で見える形にしたことになります。
僧侶(宗教者)の役割を並べると、この違いがよく分かります。能では、宗教者は一様に「退治役」ではありません。
- 葵上:横川の修験者が祈り、成仏へ導く
- 砧:夫が法華経を読み、読経の功徳で救う
- 鉄輪:安倍晴明が祈り、調伏するが未完(鬼は「時を待つ」と去る)
- 道成寺:僧が祈り、蛇を鎮めて退ける
- 黒塚:山伏が祈り、鬼女を退散させる
討伐・調伏・読経・成仏・退散と、処理の幅があります。異形になった者を、消すのか、救うのか、先送りするのか。その選び方に、感情を罰とみるか、人の姿とみるかの態度が表れます。
9
同じ六条御息所なのに — 野宮・定家
ここで、かなり厄介な例が出てきます。『野宮(ののみや)』です。『葵上』と同じ六条御息所なのに、こちらでは鬼体へ変じません。恨みも執着も消えてはいない。それでも、泥眼のまま、静かに回向(えこう)を求めます。
『定家(ていか)』も妙です。式子内親王(しょくしないしんのう)の妄執は、鬼女ではなく、墓に絡みつく定家葛(ていかかずら)として現れます。同じように執着があり、恨みがあり、死者が舞台へ戻ってくる。それでも、異形にならない曲がある。
ここで最初の説明がもう一度崩れます。強い感情そのものが、人を自動的に鬼にするわけではないようです。曲柄の分類を見ると、『野宮』『定家』は三番目物、いわゆる鬘物(かずらもの)です。一方、ここまで異形化を見てきた曲は二・四・五番目物に散っています。ここに何か傾向があるのかもしれません。ただ、曲数は少なく、分類にも資料差があります。今は、面白い差として置いておくに留めます。
10
人を鬼にしたのは、感情なのか
ここまで見てくると、「感情が人を鬼にする」という説明では足りないことが分かります。同じ六条御息所でも、『葵上』では般若の顔へ向かい、『野宮』ではそうならない。夫を思い続けた『砧』の妻も鬼にはならない。道成寺の女は蛇になり、鉄輪の女は鬼になりかけたところで止まります。
だとすれば、人を鬼にしたのは感情そのものではなく、その感情にどんな姿を与えるかという、作品ごとの選択だったのではないか。
第1回で見た「誰に声を与えるか」という違いは、ここにもあります。葵上や砧は自ら語り、道成寺の女の来歴は僧の口から語られる。外にいる異類と同じように、人の内から現れる異形も、作品ごとに違う仕方で舞台へ置かれていました。ここまで来ると、最初に考えていた「いる鬼」と「なる鬼」という二分も、少し怪しくなってきます。
11
鬼になる前に
鬼は、向こう側にだけいるわけではありませんでした。けれど、人の内側にある感情が、そのまま鬼になるわけでもありませんでした。同じ人が、ある曲では般若の顔を持ち、別の曲では持たない。ある女は蛇になり、ある女は生成で止まり、ある女はやつれた亡霊のまま救われる。
そう考えると、「なぜ人は鬼になるのか」という問いも、少し言い換えた方がよさそうです。人は、どんな感情を持ったから鬼になったのか。ではなく、その感情に、なぜその姿が与えられたのか。
第1回では、鬼の居場所を探して、境界へたどり着きました。第2回では、人の心を探って、今度は「姿を与える側」の問題へ戻ってきます。誰が、どの感情に、どの顔を与えたのか。次に見るべきなのは、そこだと思います。
