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FEATURE 03総括

誰が、誰を鬼と呼ぶのか

他者を名づけること、自分が変わること

この特集は、序で「鬼」という言葉そのものをほどき、第1回で鬼の居場所を、第2回で人が異形になる過程をたどってきました。総括では、その三つを一本につなぎます。つなぐ糸は、最初から立てていた問いです。

誰が、誰を鬼と呼ぶのか。
リード — 外と内、向きの違う二つの回

第1回と第2回は、一見すると逆を向いていました。

第1回で見たのは、外から来るものでした。土蜘蛛、国栖、田村に討たれる鬼神、鵺。中央や秩序の側が、外や境界の存在をどう記録し、どう物語にし、誰に声を与えたか——つまり、他者が異形にされていく過程です。

第2回で見たのは、内から現れるものでした。道成寺の蛇体、葵上の生霊、鉄輪の鬼女、砧の亡霊、安達原の鬼女。人が自分の感情や苦しみから蛇や生霊や鬼女へ変わっていく——こちらは、自分が異形になっていく過程です。

外と内、二つの回は向きが反対です。それでも底を流れているのは、同じ一つの働きでした。どちらの回でも、だれかがある存在に「鬼」や「異形」の名を与えており、しかもその名を与えるのは、たいてい当人ではなく、別の誰かだったのです。

見取り図
主問い

誰が、誰を鬼と呼ぶのか

分解する問い
  1. 1二つの回は、同じ「名づけ」だったのか
  2. 2では、何が鬼にし、何を鬼にしなかったのか
  3. 3名づけた相手に、能は声を残したか
  4. 4名づけたあと、物語はどう始末したか
  5. 5名づける側に立っていたのは、誰か
この記事で見るもの

鬼という中身の問題ではなく、「誰が鬼と呼ぶか」という関係の問題

「鬼」は、ある存在が生まれつき持つ種族や性質ではなく、誰かが、ある立場からつけた呼び名として現れることが多い。この総括は、そう見ます。

これは「鬼などいなかった」という話ではありません。能の舞台には、確かに鬼が現れます。確かめたいのは、その鬼を「向こう側に初めからいた中身」として見るのか、「こちら側がつけた呼び名」として見るのかで、見えるものが変わる、という点です。序で置いた三つの層——物語上の存在/舞台表象(面)/後世の分類——は、この「誰が、どの層で名づけるか」を分けるための道具でした。では、その道具で、二つの回が本当に同じ名づけだったのかを確かめます。

1

名づけという、同じ一つの働き

第1回と第2回を、「名づける向き」で並べ直すと、次のようになります。

対照第1回と第2回を、名づける向きで並べ直す
第1回(外・他者化)
名づける向き
中央・秩序の側が、外や境界の存在に名をつける
主な例
土蜘蛛、田村の鬼神、鵺、大江山
「鬼」とつけるのは誰か
国家の記録、討伐者、勝者側の語り
当人は何と名乗るか
名乗る例も、ほとんど語らない例もある
混ざりやすい点
外にいること・敵であること・鬼であることを一つにする
第2回(内・内面化)
名づける向き
人の感情が姿を得て、観客や解説がそれに名をつける
主な例
道成寺、葵上、鉄輪、安達原
「鬼」とつけるのは誰か
後世の分類(般若=鬼という括り)、現代の観客
当人は何と名乗るか
生霊・亡霊として自ら恨みを語る例が多い
混ざりやすい点
面(般若)と、物語上の身分(生霊・女)を一つにする

留保 両回の結論表(第1回 §13、第2回 §11)を名づける向きで並べ直したものです。曲ごとの検証は各回に譲ります。

向きは反対でも、やっていることは同じでした。ある存在に「鬼・異形」という名をつけ、その名にふさわしい姿(面・装束・所作)と始末(討伐・調伏・救済など)を割り当てる。第1回では中央・秩序の側が外へ向けてそれを行い、第2回では後世の分類や観客が、感情の姿を得たものへ向けてそれを行っていました。

同じことは、両回に共通していた注意にも表れています。第1回では「外にいること・敵であること・鬼として描かれることは同義ではない」と確かめました。第2回では「般若の面をかけることと、物語上その人物が鬼という種族であることは同義ではない」と確かめました。どちらも、「鬼」という名が、場所や敵対や面からは自動では出てこないことを言っています。名は、どこかで、誰かがつけていました。

名づけが鍵だとすれば、次に知りたいのは一つです。何があれば鬼にされ、何があっても鬼にされなかったのか。

2

鬼と呼ばれなかったもの

名づけの輪郭は、「鬼と呼ばれたもの」だけを見てもつかめません。鬼と呼ばれてもおかしくないのに、呼ばれなかったものを並べると、その形が見えてきます。

鬼と呼ばれなかったもの置かれた条件は似ていても、鬼にされなかった六つ
  1. 国栖

    都の外、吉野の山地にいる

    皇子を匿う協力者として物語へ入る(第1回)

  2. 山姥

    山中に棲む異形

    討たれず、自ら語り舞う(第1回)

  3. 野守の鬼神

    春日野という中央近くの神域にいる

    人を襲わず、土地を守る(第1回)

  4. 砧の妻

    夫を待ち、恨み、死んで亡霊になる

    鬼にも蛇にもならず、法華読誦で成仏する(第2回)

  5. 野宮の御息所

    葵上と同一人物。妄執を抱える

    鬼体へ変じず、死者として過去を回想する(第2回・対照群)

  6. 定家

    式子内親王と定家の執着

    鬼女・蛇体でなく、墓に絡む葛として現れる(第2回・対照群)

留保 並べる順序は段階や優劣ではありません。国栖・山姥・野守は第1回で検証した反例、砧・野宮・定家は第2回で扱った、鬼にならない例です。

この一覧から、二つのことが言えます。

一つは、外にいることも、強い感情を抱くことも、それだけでは鬼にはつながらないということです。国栖は外にいながら鬼にならず、砧の妻は深い愛執を抱えても鬼にはなりません。外にいることや、感情が強いことは、それ自体では鬼を呼び出す決め手にならなかったのです。

もう一つは、能が「鬼にしない」という道をはっきり持っていたことです。同じ六条御息所でも、『葵上』では般若の顔へ向かい、『野宮』ではそうなりません。同じ山の外部でも、土蜘蛛は討たれ、国栖は祝福されます。鬼にするかしないかは、曲ごとに選ばれていたのです。

要確認一次資料・型付で確認が残る
「異形になる曲は二・四・五番目物に集まり、三番目物(優美な女を演じる鬘物)には異形化がない」という第2回の所見は、扱った曲が少なく、曲柄の分類にも流儀差・資料差がある。いま言えるのは傾向までで、そこから先は踏み込まない。

鬼にするかしないかが選択なら、次に問うのは、名づけたあとの扱いです。まず、能はその相手に声を与えたのでしょうか。

3

声という分かれ目

二つの回を一本につなぐとき、いちばん強い糸は「声」でした。討たれた存在や、異形になった存在に、自分の来歴や苦しみを語る時間が与えられているか。この一点は、第1回でも第2回でも、同じように効いていました。

第1回では、同じく討たれる側でも、声の扱いが正反対になる一対がありました。『鵺』では、討たれた異類が自分の死と漂流を自ら語り直します。

能『鵺』を描いた耕漁の版画
能『鵺』。討たれた異類が、自らの死と漂流を語る。
空穂舟に押し入れられて淀川
— 能『鵺』

大意 中が空洞になった舟へ押し込められ、淀川へ流された。

一方『田村』では、討たれる鬼神に独立した詞章がありません。地謡が外から戦いを描き、観音の力による勝利として閉じます。討たれた側の嘆きは、最後まで表に出てきません。

第2回でも、同じく異形になった本人でありながら、声の重心が分かれました。『葵上』『砧』では、生霊・亡霊が自分の恨みや業を自分の言葉で語ります(葵上「それ娑婆電光の境には。恨むべき人もなく」、砧「我は邪婬の業ふかき」)。これに対し『道成寺』では、後場の蛇体は自分の来歴を語らず、由来はワキ(僧)が代わりに語り(「一念の毒蛇と為つて」)、後場は鐘入り・乱拍子・祈り合戦の所作が中心になります。

両回の例を、声の濃淡で一枚に並べると、次のようになります。

声の濃淡討たれる側・異形になった本人に、どれだけ声が残るか
  1. 濃い

    自ら一人称で来歴・苦しみ・恨みを語る

    鵺、葵上、砧、鉄輪、国栖、安達原(前半は老女として生活の労苦を語る)

  2. 中くらい

    名乗る・抗議するが、嘆きの回想は薄い

    土蜘蛛、大江山の酒呑童子

  3. 薄い

    所作や他者の語りで見せる

    道成寺、羅生門の鬼、田村の鬼神

留保 第1回 §6 の声の図と第2回 §1・§7 の検証を、両回まとめて置き直したものです。感情の強さの順位ではありません。各曲の詞章は両回で謡本文(muhenko)により確認済み。

ここから分かるのは、声を与えるかどうかが、鬼かどうか・外か内か・討つか救うかとは別の、独立した選択だったことです。討たれる側でも声の濃い鵺があり、異形になった本人でも所作に預ける道成寺があります。能は、名づけた存在に語らせるかどうかを、曲ごとに選んでいました。

声は、名づけたあとの扱いの入口の一つにすぎません。では、名づけた存在を、物語は最後にどう始末したのでしょうか。

4

討つ、祀る、語らせる — 始末の型

名を与えたあと、物語はその存在をどう始末したか。両回に出てきた始末を、企画で立てた横断軸「討つ/祀る/語らせる」に沿って並べ直すと、五つに整理できます。

始末の型名づけたあとの五つの始末
  1. 討つ

    消す

    武力で退治・退散させる — 土蜘蛛、大江山、羅生門、田村の鬼神(第1回)

  2. 祀る・鎮める

    秩序の内側へ置き直す

    畏れる存在を祭祀や守護の位置へ移す — 野守の守護鬼神(第1回)、序で見た御霊信仰・厲祭(道真ら)

  3. 語らせる・救う

    声や供養の時間を与える

    回向・読経・成仏へ向ける — 鵺の回向(第1回)、葵上の成仏、砧の法華読誦による成仏(第2回)

  4. 取り込む

    協力者として物語へ入れる

    聖化して秩序の側へ — 国栖(第1回)

  5. 先送り

    決着をつけない

    「時を待つ」と言わせて退かせる — 鉄輪、羅生門の鬼

留保 五つの型は、始末を見分けるための区分です。一つの隠れた目的を証明するものではありません。

この五つのうち、二つの回を合流させて初めて見えるものが一つあります。「先送り」という始末が、第1回と第2回に一つずつ、ほとんど同じ言葉で現れていることです。内から鬼になった女(鉄輪)は、復讐を果たせずこう言い残して去ります。

能『鉄輪』。祭壇の前の女を描いた耕漁の版画
能『鉄輪』。生きながら鬼となった女は、「時を待つ」と言い残して去る。
廻り逢ふべき時節を待つべしや。先此度は帰るべしと
— 能『鉄輪』

大意 再びめぐり逢うべき時を待とう。ひとまず今回は帰ろう。

外から来た鬼(羅生門)もまた、腕を斬られて「時節を待ちて又取るべし」と言い残したと、地謡が伝えます。討伐でも救済でもなく、決着を未来へ預ける終わり方で、他者化の側と内面化の側が同じ言葉で閉じているのです。

解釈本稿の読み
鉄輪と羅生門の「時節を待つ」を、他者化の側と内面化の側に現れた「先送り」の重なりとみる。これは構造上の重なりの指摘で、両曲の歴史的連続性の主張ではない。
要確認一次資料・型付で確認が残る
「討つ」と「祀る」を一つの働きにまとめ、鬼退治を「鎮魂」「封印」と呼ぶには根拠が足りない。土蜘蛛説話の変容・酒呑童子説話の享受・御霊/天神信仰は別系統として扱う。補助線にとどめ、証明済みの結論にしない。

ここまでの始末の型は、どれも「鬼=危険な敵」を前提にしがちです。ところが、その前提そのものを崩す言葉が、能の中にあります。「鬼神」です。

5

「鬼神」の両義性

「鬼神(きしん)」という言葉の使われ方は、名づけの問題を考えるうえで示唆に富みます。序で見たとおり、「鬼神」はもともと「鬼と神」を一対で扱う言葉で、死者の霊と天地の神霊をまとめて指しました。鬼は、初めから神と対立する存在ではありません。第1回で見た二つの曲が、この言葉の幅を舞台にそのまま乗せています。

『大江山』では、討たれる酒呑童子が、だまし討ちにされた側の言い分としてこう抗議します。

鬼神に横道なきものを
— 能『大江山』

大意 鬼神には、道に外れた振る舞いなどないものを。

『野守』では、春日の地を守る鬼神をめぐって、秩序を正す側の徳として同じ言葉が現れます。

鬼神に横道を正す、明鏡の宝なれ
— 能『野守』
対照同じ「横道」が、正反対の位置に立つ
大江山の酒呑童子
どの立場の言葉か
討たれる側の言い分
鬼神の位置
欺かれて討たれる鬼
始末
討つ
野守の鬼神
どの立場の言葉か
秩序を正す側の徳
鬼神の位置
土地を守る守護者
始末
討たない

留保 同じ「鬼神」という語が、曲によって敵にも守護者にもなる。見え方を分けるのは鬼の中身ではなく、名づける側がどの立場から見るかである。

ここから言えるのは、能において「鬼」は、善悪のどちら側かにあらかじめ貼りついた札ではなかった、ということです。つまり問題は、鬼の中身よりも、どの立場から鬼と呼んでいるかに移ります。

NOTE
『野守』の作者には異説がある(the-noh.com・国立能楽堂は世阿弥、muhenko 底本は禅鳳)。作者は未確定。「鬼神に横道を正す」の句が鬼神自身の発話か地謡かも確定していない。

問題が立場に移るなら、次に問うべきは、名づける側の主語です。

6

名づける側は、誰か

ここまで来ると、「誰が、誰を鬼と呼ぶのか」の前半——誰が呼ぶのか——に答えられます。名づける主語は、曲や層によって違っていました。

名づける主語誰が、どの層で「鬼」と呼ぶか
  1. 国家・朝廷の記録

    CHRONICLE

    「土蜘蛛」「土雲」を、服属しない在地勢力の呼称として記す

  2. 討伐者・勝者の語り

    STORY/STAGE

    田村麻呂の勝利に観音の力を重ね、討たれる鬼神を語らせない

  3. 詞章・作者

    STAGE

    鵺に死後のことまで語らせ、道成寺では由来を僧に代わりに語らせる

  4. 後世の分類

    RECEPTION

    般若の面を「鬼」と括り、曲を鬼物・鬼女と分類する

  5. 現代の観客・翻訳

    RECEPTION

    嫉妬で蛇になった女までも「鬼」と呼ぶ

留保 「外部」「敵」「鬼」は、主語を落とすと客観的な区分のように見える。だが実際には、朝廷から見て/討伐者の側から見て/詞章では/後世の分類では/現代の観客には、という主語がそのつど付いていた。

そのうえで、能の面白いところは、名づけられた側に、ときどき名づけへの反論を与えていることです。酒呑童子は「偽りはないと言ったではないか」と討伐の段取りそのものに抗議し、鵺は自分がどう捨てられたかを語り直します。名づける側の物語の中に、名づけられた側の言い分が残っているのです。名づけが一方通行ではなかったことを、舞台はそう書き残しています。

ただし、これを大きく読みすぎないことも大切です。能が「鬼の人権」を描いた、とまでは言えません。討たれる側に声を与える曲もあれば、田村のようにほとんど与えない曲もありました。言えるのは、声を与えるかどうかが曲ごとの選択だった、というところまでです。

ここで、一つ素朴な疑問が残ります。そもそも、「鬼」という名と、それが指す中身は、なぜこうもたやすく切り離せるのでしょうか。

7

補助線 — 名と、その中身

この疑問に、現代の言語学・記号論が一本の補助線を引いてくれます。これは中世の能の作者が抱いていた考えではなく、後の時代の言葉を借りて現象を言い直すものです(研究方法論でいう解釈時間の層にあたります)。

言語学者ソシュール(1857〜1913年)は、言葉という記号(シーニュ)を、二つの面に分けて考えました。

記号論の補助線名前の形と、その中身
  1. シニフィアン

    名前の形(音・文字の側)

    「鬼」という語そのもの

  2. シニフィエ

    意味(指される中身の側)

    その語が指す存在

留保 ソシュールは、この二つの結びつきが自然の必然ではなく、社会の約束ごとにすぎないと論じた(記号の恣意性)。「犬」という音が犬を指すのは、そう呼ぶ約束があるからで、音と動物のあいだに必然の絆があるわけではない。

この補助線を当てると、本特集で見てきたことが一段すっきりします。「鬼」という名前の形と、それが貼りつけられる存在のあいだにも、自然の必然はありません。土蜘蛛を鬼とし、国栖を鬼としない。葵上を般若へ向かわせ、野宮をそうしない。この結びつけ方は、存在の側から決まっていたのではなく、名づける側が、ある立場から結んだ約束ごとでした。第2回で見た「般若の面と、鬼という身分は同義ではない」も、名前の形(面)と中身(身分)が別々に動きうることの一例です。

もっとも、ソシュールの用語は、本来ひとつの言語の仕組みを説明するもので、鬼という社会的な名づけにそのまま重なるわけではありません。借りられるのは、名前の形とその中身の絆は必然ではなく、誰かが結んだものだ、という一点です。その一点だけでも、特集の見方——鬼は中身の問題ではなく、誰が呼ぶかの問題だ——は、深いところで支えられます。

この見方自体は、現代の理屈です。では、同じ現代を生きる、いまの鬼ものはどうでしょうか。

8

現代の鬼ものと、声

序と第1回で、現代の鬼ものを入口として参照しました。総括でもう一度戻ります。『鬼滅の刃』では、討たれる鬼の多くに、人間だったころの過去と痛みが与えられます。『桃源暗鬼』では、退治される側から世界が描き直されることさえあります。討たれる怪物だったはずの鬼が、いまでは、過去や痛みを抱えた存在として描かれることが多くなりました。

この特集で見てきたのは、「能もすでに同じことをしていた」でも、「これは現代だけの発見だった」でもありません。もっと具体的なことです。討たれる側や異形になる側に声を与えるかどうかは、中世の能でも曲ごとに選ばれていました。鵺は与え、田村は与えない。葵上は与え、道成寺は所作に預ける。声を与えるという選び方は、昔からあったのです。

変わったのは、その二つのうち、どちらを当たり前とするかでした。中世の能では、与える曲と与えない曲が並んでいます。いまの鬼ものでは、討たれる側に事情や過去を与えるほうが、ごく普通の作り方になりました。

現代作品と能は、「影響関係」で結べるものではありません。時代も媒体も、見る人も違います。比べて見えてくるのは因果の糸ではなく、鬼という姿が、「誰を外に置くか」「誰に事情を語らせるか」「誰の側から正しさを見るか」という問いを載せやすい器だった、ということです。この器は六百年前から使われ、いまも使われています。器の形は変わっても、載せている問いはよく似ています。

ここまでの歩みを束ねて、最初の問いへ戻ります。

9

総括 — 名づけの中の鬼

言い切れること

二つの回で十五あまりの曲を、声・始末・場所・「鬼と呼ばれなかったもの」の四点で比べてきました。その結果、印象ではなく比較から言い切れることが一つあります。

能において「鬼」は、ある存在が生まれつき持つ性質ではなく、呼ぶ側が、ある立場からつけた名前だった。

根拠は、本稿で並べた事実そのものです。外にいても鬼にされない者がいる(国栖・山姥・野守)。強い感情を抱いても鬼にならない者がいる(砧・野宮・定家)。同じ六条御息所が、『葵上』では般若へ向かい『野宮』では向かわない。同じ「鬼神」が、討たれる酒呑童子の抗議にも、土地を守る野守の徳にも使われる。これだけ並べば、鬼を存在の側の性質として読むのは無理があります。鬼は、呼ぶ側の立場から名づけられていました。これは仮説ではなく、比較の結論です。

鬼に出会ったら、先に問う三つ

では、それが分かって何の役に立つのか。この特集が残すのは、一つの問いの順番です。能の鬼に出会ったとき——そして現代の鬼ものを見るときにも——「これは鬼か、いい鬼か悪い鬼か」と問う前に、次の三つを順に当てると、作品の作りが一段はっきり見えてきます。

読み方鬼に出会ったら、この順で問う
  1. 1

    誰が、この存在を鬼と呼んでいるか

    国家の記録か、討伐者か、詞章か、後世の分類か、いまの自分か。まず主語を押さえる。

  2. 2

    その存在に、声は残されているか

    自ら来歴を語る(鵺・葵上)/名乗るだけ(土蜘蛛)/所作や他人の語りに預ける(道成寺)/ほとんど語らない(田村)。

  3. 3

    名づけたあと、物語はどう始末したか

    討つ・祀る・語らせる(救う)・取り込む・先送りにする、のどれか。

留保 矢印は手順の順序で、価値の高下ではありません。「鬼が怖いかどうか」では見えなかった差——誰の都合で鬼にされ、誰の言い分が残され、どう始末されたか——が、この順で前に出てきます。

鬼という札を先に貼ると全部が同じ箱に入ってしまう、という第1回の戒めは、裏返せば、この三つを先に問うことの効き目でした。これが、六百年ぶんの鬼の曲から取り出せる、持って帰れる読み方です。

仮説 — 能の鬼の外でも通るか

ここから一歩、確証のない領域へ踏み出します。本稿が取り出した読み方——主語・声・五つの始末——は、能の鬼だけの話なのでしょうか。

この読み方は、能の鬼に限らず、怨霊・天狗・異国の他者・付喪神のような別の系統の異形にも、ある程度まで通るのではないか。

もしこの仮説が正しければ、別系統の曲や説話を同じ三つの問いで読んでも、名づける主語が立ち、声の濃淡が分かれ、始末が五つの型のどれかに収まるはずです。逆にこの読み方が通らなくなるのは、「われは鬼なり」と当人が自分で名乗って完結する曲が大半を占めるときや、五つのどれにも収まらない始末の型が繰り返し現れるときでしょう。そうなれば、「鬼は呼ぶ側がつけた名だ」という読み方だけでは足りません。どこで崩れるかを先に決めておけば、この仮説は次の調査で試せます。

次に見たいもの

そこで次は、能の鬼の内側をもう一周するよりも、鬼の外・能の外へ出て、この読み方が通るのか崩れるのかを確かめたいと考えています。見たい対象は、具体的に三つあります。

次の検証対象能の外・鬼の外で、この読み方を試す
  1. 異国から来る他者

    『善界(是界)』

    唐から渡ってきた天狗が日本の仏法に敗れる曲。「内なる外部」ではなく「海の向こうの他者」を、どの主語が、どう名づけ、どう始末するか。「討つ」型が国境を越えても同じ形を取るか。

  2. 媒体が変わるとき

    酒呑童子の絵巻・御伽草子・草双紙

    同じ鬼が媒体を移ると、与えられる声と始末はどう変わるか。能で討たれる間際に抗議した酒呑童子の声は、増えるのか、消えるのか。

  3. 祀る側へ振り切った名づけ

    菅原道真(845〜903年)らの怨霊信仰

    「討つ」ではなく「祀る」へ振り切った名づけ。能の鬼の始末(主に討つ・調伏する)と、祭祀の始末(鎮めて神にする)は、どこで分かれ、どこで重なるか。

留保 いずれも未検証の見通し。(3) は鬼退治=鎮魂という早すぎる結論を避けながら、御霊・天神信仰の成立史を別途確かめたうえで比べる。

この三つを同じ読み方で読めば、「呼ぶ側がつけた名としての鬼」という見方が、能の鬼を超えて通るのか、それとも能の鬼に固有のものだったのかが見えてきます。

結び

鬼が本当に向こう側にいるのか、自分の内側にいるのか。この特集は、その問いにまっすぐ「いる/いない」とは答えませんでした。代わりに、問いの立て方を一つ入れ替えました。鬼を探す前に、名づける側に立っているのは誰かを、先に問う。すると、能の鬼は、怖い怪物の図鑑ではなく、「誰を外に置き、誰に言い分を残し、誰をどう始末するか」を六百年かけて試してきた、人間の側の記録として読めてきます。

鬼は、向こう側にいる前に、名づけの中にいました。その名づけを、次は能の外の異形でも確かめにいきます。

事実史料・謡本文で確認
引用した詞章は、すべて第1回・第2回で謡本文(muhenko)により確認済みのものの再掲(鵺・葵上・砧・道成寺・大江山・野守・鉄輪・羅生門)。本稿で新しい詞章は引かない。
解釈本稿の読み
「鬼は呼ぶ側がつけた名だった」という結論、声・始末・名づける主語の整理、記号論の補助線、現代の鬼ものとの比較は、いずれも本稿の読み。
要確認一次資料・型付で確認が残る
鎮魂説は補助線で未証明。曲柄分布の所見は n が小さく傾向まで。『野守』ほか各曲の作者比定、§「次に見たいもの」の三対象は未検証。校注本・型付の確認は各回の課題として残る。
図版クレジット
  • 月岡耕漁『能楽百番』(1898–1903)/シカゴ美術館蔵・パブリックドメイン(Wikimedia Commons 経由)
  • 月岡耕漁『能楽百番』(1898–1903)/シカゴ美術館蔵・パブリックドメイン(Wikimedia Commons 経由)