本文へスキップ
FEATURE 03序

鬼とは、何か

語源・鬼神・三つの層

鬼は、いつの時代も繰り返し描かれてきた存在です。説話に、絵巻に、芝居に、そして現代のマンガやアニメに。鬼は姿を変えながら、何度も舞台へ戻ってきました。最近なら『鬼滅の刃』や『桃源暗鬼』が分かりやすい例でしょう。アニメに限っても、挙げればきりがありません。もっとも、人気があるのは必ずしも鬼そのものではありません。『鬼滅の刃』の鬼は、物語の上では多くが討たれるべき敵です。それでも近ごろは、人間だったころの過去と痛みを与えられ、『桃源暗鬼』のように退治される側から世界が描き直されることさえあります。討たれる怪物だったはずの鬼は、いつのまにか、過去や痛みを抱えた存在として描かれるようになりました。

ところが、「鬼とは何か」と正面から問われると、急に心もとなくなります。地獄の獄卒も鬼、節分で豆をぶつけられるのも鬼、酒呑童子のような盗賊めいた怪物も鬼、嫉妬で蛇になった女までも、しばしば「鬼」と呼ばれます。姿も、由来も、ばらばらです。

この特集では、能に現れる鬼や異形を手がかりに、「鬼とは何か」をもう一度ほどいてみます。能は六百年にわたって、鬼を討ち、鬼を悼み、鬼を舞ってきました。鬼について、これほど多くの例を残したジャンルは多くありません。

ただ、曲を見ていく前に、言葉そのものを確かめておきます。「鬼」という一語が、最初から一つの意味だったわけではないからです。

参考
現代作品は、読者がすでに持っている鬼のイメージを呼び出す入口として参照します。「能も同じだった」と重ねるためではありません。アニメ「鬼滅の刃」公式ポータル / アニメ『桃源暗鬼』公式サイト

1

「おに」と「鬼」は、もとは別のもの

まず、日本語の「おに」と、漢字の「鬼」は、出発点が違います。

日本語の「おに」の語源には、「隠(おん/おぬ)」=姿を隠して人の目に見えないものから来た、という説があります。平安時代中期の辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(承平年間=西暦931〜938年ごろ成立)は、「鬼」に「於爾(おに)」の読みを与え、物が隠れて姿を見せないことから「隠(おぬ)」と呼ぶ、という趣旨の説明を載せています。もともとの「おに」は、角のある怪物というより、目に見えない何かに近い言葉だったことになります(語源には諸説あり、断定はしません)。

一方、漢字の「鬼(キ)」は、中国では死者の霊を指します。日本語でいえば「幽霊」に近い。この考え方は、儒教の古い礼の書物にはっきり出てきます。『礼記(らいき)』(前漢の時代、紀元前1世紀ごろに編纂)の中で、孔子はこう述べています。

衆生(しゅじょう)必ず死す、死すれば必ず土に帰る。此(こ)れを之(これ)鬼と謂(い)う。
— 『礼記』祭義篇

(生あるものは必ず死に、死ねば必ず土へ帰る。これを「鬼」と呼ぶ。)つまり中国では、死んだ人は、原則としてみな「鬼」になります。特別な条件があるわけではありません。鬼とは、まず死者の霊そのものでした。同じ『礼記』は、人のたましいを二つに分け、「魂気(こんき)は天に帰し、形魄(けいはく)は地に帰す」——軽い気は天へ昇り、肉体に宿る魄(はく)は地へ帰る——と説きます。天へ昇る側が神に、地へ帰る側が鬼に近い、という整理です。(のちに道教や中国医学は、これをもっと細かいたましいの数え方へ発展させますが、出発点はこの礼の書物にあります。)

ここで、ひとつ疑問がわきます。「死者がみな鬼になるなら、地上は鬼で埋め尽くされてしまうのでは」。そのとおりで、中国では、死者の霊がこの世の裏側に満ちていることが、むしろ前提でした。問われるのは「鬼になるかどうか」ではなく、その鬼が、祀られるか・祀られないかです。きちんと供養され祀られた死者は、祖先の霊(祖霊)として子孫を守り、福をもたらします。逆に、供養されなかった霊や、若死に・横死などまともに弔われなかった死の霊は、祟る鬼(厲鬼(れいき)・怨霊)となって害をなす、とされました。中国の鬼が、人を食い、人を害する怖い存在として語られるのは、この祀られない側の鬼です。漢字「鬼」の成り立ちを説いた最古級の字書『説文解字(せつもんかいじ)』(後漢・西暦100年ごろ成立、121年に朝廷へ献上)も、鬼は「陰の気で人を害する」として、害をなす意味を字の中に読み込んでいます。

中国の「鬼」=死者の霊(祀れば祖霊、祀られねば祟る鬼)
日本の「おに」=目に見えない、やがて姿を得た異形

という、別々の観念が、「鬼」という一つの漢字の上で出会ったわけです。死者の霊を表す中国の文字が、姿を隠すものを指す日本語に当てられた。ここに、「鬼」という言葉の最初のねじれがあります。のちに仏教の地獄の獄卒、中世の盗賊や乱世の記憶が重なって、私たちが思い浮かべる「角と牙の鬼」の姿が固まっていきます。

言葉のずれは、現代でも起きています。『鬼滅の刃』の英題は Demon Slayer(鬼を滅する者)です。けれど demon は、本来キリスト教的な悪魔——人の外にいて、本性からして悪なる霊です。「隠れて見えないもの」から来た日本の「おに」とも、死者の霊を指す中国の「鬼」とも、ほんとうは重なりません。鬼という一語の座りの悪さは、翻訳の場面にいまも顔を出します。

そして、このずれは呼び名だけの問題ではありません。西洋の悪魔は、しばしば人に取り憑くものとして語られます。悪魔は別の人格として外からやって来て、祓えば出ていく。悪いのは、あくまで外の何かです。ところが日本の鬼、とりわけ能の鬼は、人の内側から現れることがあります。嫉妬や執着のはてに、人が自分で鬼になっていく。悪を外の他者に預けるのではなく、人のうちから異形が立ち上がる——この違いは、後半(第2回)で「人は、なぜ異形になるのか」を考えるときの、大事な手がかりになります。(なお、狼男や吸血鬼のように「人が怪物になる」物語は西洋にもあります。ここでの対比は、あくまで「悪魔(demon)」という概念に限った話です。)

2

鬼にして、神

もう一つ、見落とされやすいことがあります。鬼は、もともと神と対立する存在ではありませんでした。

「鬼神(きしん)」という言葉があります。いまでは「恐ろしく強い者」のたとえに使いますが、もとは死者の霊(鬼)と、天地の神霊(神)を、ひとまとめにした言葉でした。さきほどの『礼記』で孔子は、鬼と神を並べて「鬼と神を合わせる(合鬼与神(ごうきよしん))のが、教えの究極だ」と述べています。鬼と神は、別々の陣営ではなく、はじめから一対で語られていました。

儒教では、この鬼神が畏敬の対象でした。『中庸(ちゅうよう)』は「鬼神の徳たること、それ盛(さか)んなるかな」——鬼神の働きは、なんと大きいことか——と讃えます。『論語』(孔子=紀元前551〜前479年の言行録。戦国期に編纂)は「鬼神を敬してこれを遠ざく」——鬼神は敬いながら、むやみに近づかない——を、賢い態度として挙げます。恐ろしいから遠ざけるのではなく、恐ろしいからこそ敬う。鬼神への向き合い方が、ここによく表れています。

日本でも、同じ姿勢が見られます。荒ぶる神や祟り神のように、恐ろしい力を持つものほど、神として祀られる。怒らせれば災いをもたらす。だからこそ、鎮め、祀り、味方につけようとする。「怖い」と「敬う」が、いつもひと組になっています。菅原道真(すがわらのみちざね)が、恐れられた末に天神として祀られていったのは、その分かりやすい例です。日本語の辞書も「鬼神」を、荒々しく恐ろしい神、あるいは死者の霊を神として祀ったもの、と説明します。

この「祀って鎮める」という発想は、日本だけのものではありません。中国にも、祀り手のない死者の霊をおそれ、国家が引き受けて祀る制度がありました。『礼記』祭法篇は、子孫が絶えて祀る者のない帝王・諸侯・大夫の霊を、それぞれ「泰厲(たいれい)・公厲(こうれい)・族厲(ぞくれい)」と呼び、王や諸侯が営む祭りの対象に数えています。祟りかねない無縁の霊を、放置せず、祭祀の枠組みの内側へ置き直す——という考え方です。日本で、祟る死者を神として祀り鎮めた御霊(ごりょう)信仰は、この「怖いものを祀って鎮める」発想の、日本なりの展開と見ることができます(両者を直接の影響関係とまでは断定しません)。

だとすれば、「鬼であること」と「神であること」は、はじめから反対語ではありません。むしろ、

鬼にして神。

という状態がありうること自体が、鬼と神を単純な対立項として扱えないことの証しです。この特集で後に出てくる能『野守(のもり)』では、鬼神が人を討つのではなく、春日の地を守ります。鬼であり、同時に神でもある。それは例外ではなく、この地続きの関係から見れば、むしろ筋が通っています。

3

三つの層を、分けておく

鬼を考えるとき、私たちはすぐ三つのものを混ぜてしまいます。この特集では、最初に分けておきます。

  • 物語上の存在:鬼、蛇、生霊、怨霊、神など、筋の中で何者とされるか
  • 舞台表象:面、装束、所作によって、どんな姿として見せるか
  • 後世の分類:現代の観客や解説が、それをどう括ってきたか

とくに能では、この区別が効きます。たとえば般若(はんにゃ)の面をかけていても、物語の上では、鬼という種族ではなく、嫉妬に苦しむ女や、生きた人の思い(生霊)だったりします。

般若の面をかけること と、その人物が「鬼という種族」であること は、同じではない。

ここを混ぜると、能が描いた細かな違い——変化の途中、救われる異形、討たれない鬼神——が、すべて「鬼」の一語に飲み込まれてしまいます。

4

二つの問いで見ていく

言葉を確かめたうえで、能の鬼・異形を、二つの問いから見ていきます。

  • 第1回:鬼は、どこにいるのか
    中央や秩序の外に置かれた存在が、どこに現れ、誰にどう語られたのか。土蜘蛛・国栖・田村・鵺を軸に、外と境界をたどります。
  • 第2回:人は、なぜ異形になるのか
    人が自分の内側から蛇や生霊や鬼女へ変わるとき、その感情にどんな姿が与えられたのか。道成寺・葵上・鉄輪・砧・黒塚を軸に、内と変化をたどります。

外にいる鬼と、内から現れる鬼。最後に、その二つは「誰が、誰を鬼と呼ぶのか」という一つの問いで出会います。

では、鬼を探しに行きます。まずは、都の外から。